少々残酷な話が出てきますので、そういった話題が苦手でお嫌いな方はこれ以下の文章は読まないで下さい
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我が家は毎週、「野生の王国」を見ていた。
丁度、夕飯の時間で夕食を食べながら見ることが多かった。(あまり誉められた習慣では無い)
その日、「野生の王国」ではチンパンジーの生態を放送しており画面に「ショッキングなシーン(だったと思う)が流れますのでご注意下さい」とテロップが出た。
そのショッキングな場面というのは、チンパンジーの群れのリーダーが交代して新しいリーダーが中心になって、前リーダーの子供を殺すといったものだった。しかも、必死に子供を守ろうとする雌から子供を奪い取り殺すだけではなく、その体を引き裂いて食べる場面もあった。それは子供を持つ雌は発情しないので、自分の子孫を残したい新しいリーダーは前リーダーの子供を殺しその後、発情した雌と交尾し子孫を残すために行なわれる行為である。
私は小さな頃から動物ドキュメンタリーを結構見ていたし、同じ子殺しをライオンの群れでもやっているのをテレビで見ていたのでそれ程ショックではなかったけれど、不快な気持ちにはなった。それが本能だと言っても、不快な行動であることは変わりなかった。
母はすっかり気分が悪くなり、それまで「動物の中で一番チンパージーが好き」などと言っていたのに、「チンパンジーは嫌い」と言うようになった。
さて、そのチンパンジーの中にボノボと呼ばれる亜種がいる。
彼等はチンパンジーよりも賢く、穏やかだと言う。
そして争いを好まず、群れの中で争いが起こりそうになると交尾(または交尾の真似)をして争いを回避するのだそうだ。たしかに、セックスは単に生殖行為といっただけでなくコミュニケーションのひとつでもあるから(←双方の同意がある場合に限る)争いを回避するには有効な手段なのだろうと思う。
母は「チンパンジーは嫌いだけど、ボノボは好き。だって人間に近いから」と言った。
それを聞いて「それはどうかな?」と思った。
私は人間は平気で暴力に慣れる攻撃的な性質があると思っている。
普段はそれをコントロールしていても、簡単に暴力を容認することがある。
「集団」になった場合、それは顕著だ。(更に上のほうからの“お許し”があれば何の迷いも無く暴力を振るう)
例えばクラスでいじめがあった場合
一人がいじめられっ子を殴ると、他の連中も次から次に殴るし、殴ってこない連中もその暴力を笑って見ているといったことがある。(勿論、半数くらいどちらもしない人がいるが)
殴られる前までは普通に接していたクラスメートが殴る側、あるいは笑って見ている側になるのを何度も見てきた。
チンパンジーの子殺しを見たときにそれを思い出した。
争いを嫌うボノボより、チンパンジーのほうがより我々に近い
チンパンジーが持つ攻撃性は人の中にもある
私自身、小学生の頃は「殴られる側」だったから絶対に人を殴るような真似はしないけれど、だからと言って自分が攻撃的なものを持っていることは否定しない。
「私はあんな人達とは違う。あんな醜悪で下劣な事はしない。」
確かにそう思っている。けれど、もし自分が殴る側、それを見て笑っている側だったら・・・・もしかしたら、暴力を振るう醜悪さに気付かないかもしれない・・・・・
チンパンジーの持つ攻撃性も、集団で人を殴る卑怯な振る舞いも自分自身を映しだしている
「あんな連中とは違う・・・・でも、自分の中にもあんな醜悪なものがあるかもしれない」
そう思うことは悪いことではない。
勿論、自分の醜悪で嫌な化け物のようなものを認めるのは、情けないことだけれど恐ろしいことではない。
自分の持つ醜悪さに向き合えば、それを理性や知性で押さえ込むことが出来るからだ。
自分の中の化け物を理性で縛り、知性で制御出来る化け物の主人は自分しかいない。
むしろ、自分の中の醜悪さに目を背ける鈍感さを身に着けるほうが恐ろしい。
チンパンジーは本能にまかせたままだが、人は攻撃的な本能に理性という鎖をかけることが出来る。
さて、最近はボノボの数が激減していると聞く。
なんでも、相次ぐ内戦により食べ物を得ることが出来なくなった飢えた人達が、ボノボを食べているからだそうだ。
なんて痛ましいことだろう(他に言葉が見つからない)
他の種を滅ぼし、同種を殺し、最後は自らの手足を引き千切るような真似をするようになるのだろうか?
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