海洋天堂

「大福は閻魔大王さまから逃れた。
だから、あの子の居場所がきっとあるはずだ。」

*****

ガンに冒され余命わずかの王心誠。
自分の死後、一人残される自閉症の息子の大福の将来を案じた心誠は小舟から大福と海に飛び込むが、泳ぎの達者な息子は足かせを解き心中は失敗に終わった。

心誠に残された時間は残りわずか。
その間に心誠がいなくなっても息子が暮らしていけるようにしなくてはならない。

感情を表に出す事も、ひとりで食事をとる事も、着替える事も出来ない息子。
仕事の合間に必死で大福を受け入れてくれる施設を探すが21歳になる彼を受け入れてくれる所は見つからない。

それでも人に迷惑をかけないように穏やかに辛抱強く振る舞う心誠。
厳しい状況の中でひとつひとつ出来るを事を探していく。

そしてようやく大福を受け入れてくれる施設が見つかる。
けれど、心誠にはまだ大福に教えなくてはならない事が残されていた。

*****

この映画は特に大きな事件が起きるわけではない。
心誠が大福と過ごす日常が淡々と描かれるだけだ。

「安心して逝くにはまだ教えなくてはいけないことがある」

卵をゆでる、バスに乗る、買い物をする、掃除をする・・・・自閉症の大福の前にそのひとつひとつが大きな壁となって立ち塞がる。

障害を持つ子をひとり残して逝かなくてはならない心誠の心情を想うと本当に辛い。
「そのままでいい、あの子のままで生きていてほしい・・・・」
控えめな心誠が時折口にする言葉が胸に突き刺さる。
見ている我々もそして誰よりも心誠自身が大福が大福のままで生きることが難しい事を知っているから・・・・・

それでも大福の居場所が出来たのは、多くの人の善意と優しさがあったからだ。
水族館の館長、タン校長、鈴鈴、心誠に好意を抱いている柴さん・・・・そんな人達の善意と優しさが大福の居場所を作ってくれた。

勿論、現実はそんな善意と優しさに満ちたものではない。
けれどこの作品では周囲の人殆どが二人を支えてくれる。
なぜだろう?それはきっと障害を持つ人にとって他人の理解、善意やささやかな優しさが絶対に必要だからだ。
それがなくては生きていけないから敢えて心誠と大福の周りの人達を善人ばかりにしたのだとおもう。

はじめは大福が「ひとりで生きていくために・・・」と口にしていた心誠だったが、いつしか「お前はひとりじゃない」と口にするようになっていた。
心誠がそう口にするようになったのは自分たちが周囲の人に支えられていたこと、これからも支えられていく事に改めて気付いたからだろう。

大福の居場所はなんとか見つかったけれど、いつも自分の傍にいてくれた心誠がいなくなってしまったら大福はパニックになったりしないだろうか?
変化を嫌う自閉症の彼が心誠がいない事に耐えられるのだろうか?
そう心配していたが心誠はちゃんと自分の代わりを大福のために遺していた。

「ずっと一緒だ」
そう大福に言い聞かせていた心誠。

泳ぎの達者な大福が水族館の水槽を泳ぐ。
青い水の中は天空のようだから大福が空を飛んでいるみたいだ。
水の中で大福が浮かべる表情は今は亡き父と一緒にいる時と同じ。

スクリーンがずっと霞んで見えていたけれど、エンドロールが流れる頃にはますます霞んでしまった。

*****

大福が水槽で泳ぐことを許している水族館の館長、病をおして心誠親子に手を差し伸べるリュウ先生、大福と仲良くなった鈴鈴、心誠に思いを寄せている柴さん・・・・
彼らの善意と支えがあるからこそ大福は大福として生きていけるのだ。
誰もが優しい・・・・その優しさが胸に沁みる。
現実はなかなかそういかないけれど・・・・

大福役のウェイン・ジャンもいいが、心誠役のジェット・リーもいい。
「キス・オブ・ザ・ドラゴン」の時の彼が好きなので、この役もとても良いと思った。
勿論アクション・スターの彼も素晴らしいが、何かを諦めたようなどこか寂しそうな目をした彼はこういった役がとても似合う。(私はトニー・レオンも同じ雰囲気を持っているように思える。インファナル・アフェアのレオンの役をリーが演じてもいいなと思った)

穏やかで控えめな心誠。
大福が7歳の時に死んだ妻のことも柴さんの自分への好意を知っていながら一歩踏み込めないことも、彼の人柄を浮かび上がらせて切ない。

優しい本当に良い映画だった。

*****

見終わってから、一人で見に行って本当に良かったなと思いました。
誰かと一緒だったらかなり恥ずかしかったでしょうね。
劇場内のあちこちでずっと鼻をすする音がしてたけど・・・ 
気持ちは分かりますよ。ええ。

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リトル・ランボーズ

「今日がぼくにとって人生最高の日だ」

ウィルは母と祖母と妹と暮らす小学校5年生の少年。
父親は彼が小さい時に亡くなっており、一家は厳しい戒律を守るプリマス同胞教会のメンバーでテレビ、ラジオ、音楽といった娯楽が一切禁止されている。
そんな彼の唯一の楽しみは窮屈さを気を紛らわせるように色彩豊かなイラストやパラパラマンガを描くことだった。

ある日、ウィルは学校一番の問題児リー・カーターと知り合った。
彼は誰もが手を焼く悪ガキで初めて会ったウィルを騙し、ウィルの父親の形見の腕時計を取り上げる始末。
が、ウィルはリー・カーターの言葉を信じ、ひょんなきっかけで彼の家についていくことになる。

そこでウィルはそれまでの日常を変えてしまう出来事に遭遇する。
それは彼が初めて目にする映画、シルベスター・スタローンの「ランボー」だった。

それはウィルにとって衝撃的な出来事だったに違いない。
子供らしい楽しみを持つ事を許されなかった息苦しい日常から解放される喜び。
その喜びはもともと想像力豊かな少年の世界を変えた。

ランボーを見た後のウィルの心の底から溢れ出る興奮と喜びはよく分かる。
灰色だった日常が足元からあらゆる色彩を持つ世界へと変わっていくのだ。
じっとしていられない、走って、叫んで、溢れる想像力を解き放ちたい!
子供の頃、そんな気持ちになったことは無いだろうか?

大人から見れば些細なことであっても、たった一本の映画がたった一冊の本が子供に力を希望を与える
大人から見たら馬鹿げていて、なんの役にも立たないように思えても、当の子供にとっては神聖で大切なことだったりするものだ。そしてそれはいつかその子の力や支えになる。
一生心に残る特別な体験なのだ。
だから子供が大切にするものを頭から否定することは残酷な心無い行いだと私は考えている。

興奮覚めやらないウィルは翌日リー・カーターの元へ。
「ぼくはランボーの息子だ!」とすっかりランボーになりきった姿で現れ、兄貴のビデオカメラで自主映画を撮っていたリー・カーターと共に映画を作る事になった。
主演はウィル、監督はリー・カーター。
家族にも学校にも秘密の映画作りと友情が始まった。

乱暴で悪さばかり働いている学校中の鼻つまみ者のリー・カーターだが、ウィルと同じ父親を早くに亡くしており母親は再婚し兄と彼を残し長く留守をしている。
リー・カーターが慕う兄貴は彼の寂しさに気付くどころか邪険に扱っている始末。
(もっとも兄にしても弟の孤独に気付くほど大人ではないのだろうが)
悪ガキのリー・カーターも本当は寂しい少年なのだ。
ウィルにしても、厳しい戒律のおかげで子供らしいことも出来ずロクに友達も作れなかったのではないだろうか?

全く違う二人だけれど、似たような孤独と想像力を持ち“映画作り”という目的を同じくしたことによって友情を徐々に深めていく様子が微笑ましい。

空飛ぶ犬、悪役の案山子、危なっかしいアクション・・・・そのひとつひとつがとてつもなく刺激的で楽しい特別な時間

家族や教会に隠れ映画の撮影にのめり込んでいく二人だったが、彼等の秘密の映画作りが同級生に知られてしまう。
よりによってリー・カーターが1週間の停学をくらってしまった時に。

一方、ウィルの家族にも映画作りのことがバレ始めて・・・

*****

上手くいっていたウィルとリー・カーターの友情が徐々にギクシャクしてきたり、厳格な教会の規律を守る家族との葛藤があったりと、とりわけ捻った物語ではない。
オーソドックスな物語だと思う。
けれど、アッと驚く展開やアイデアを持つもの、皮肉の利いた捻った映画が必ずしも良い映画というわけではないと思っているからそれでいい。

クールなフランス人の交換留学生に憧れ次々と目にする新しい世界に夢中になってしまうウィルの気持ちや、秘密だったはずの“映画作り”を大勢に踏み込まれる事に苛立ちを感じつつウィルとの友情を守ろうとするリー・カーター・・・・登場人物たちのそれぞれの思いに共感しながら物語を見守ることが出来る楽しさこそ映画の醍醐味だと思う。

*****

映画の撮影中に仲違いしてしまったウィルとリー・カーター。
怒りにまかせリー・カーターとその兄を仲間達と一緒に罵倒し石を投げつけてしまうウィル。
リー・カーターに対してあまりに心ない仕打ちだと思うが、ウィルの幼さを考えれば彼がそんな事を言ってしまうのもわからないわけではない。
だが、ウィルの言葉は行動はひとを酷く傷つけることだ。早くその事に気付かなくてはいけないのだがと苦い気持ちで画面を見守っている矢先に起こった事故。

タールが溜まった穴に落ちたうえに瓦礫の下に閉じ込められたウィル。
その彼を助け出したのはリー・カーターだった。

呆然とするウィルにリー・カーターは助けに来たわけじゃない、兄貴のビデオカメラを取り返しに来ただけだと言った。
「お前を助けようとしたんじゃない。お前に言いたい事があるから来たんだ。オレのことはいい。けど、アニキの事を悪く言うな!アニキは最高なんだ!みんなオレから離れて行った。お前もあいつらと一緒だ。けど、アニキだけは違う。アニキだけはオレの傍にいてくれる。アニキを悪く言うな!!」

誇り高いゆえ本音を隠す為についた嘘がひとつ。
そして、孤独な彼の本当の言葉がたくさん。

どれほど酷くリー・カーターの心を傷つけたか・・・・とウィルが悟った時にリー・カーターの上に瓦礫が崩れ落ちてきた。

*****

自分の事で家族はプリマス同胞教会から追放される寸前。
映画作りはもちろん頓挫。
なによりも、大切な友達に大怪我をさせ、彼の心を誰よりも酷く傷つけてしまった事を後悔するウィル。

一方、大怪我をして入院中のリー・カーター。
信頼していた友だちを失い、アニキのビデオカメラを壊してしまった事で退院してもアニキに相手にされなくなるだろう(それでなくても邪険にされているのに)・・・もう、彼の居場所はどこにも無くなってしまう。そんな不安を抱えていた。

リー・カーターが退院する日。
当たり前のように家族も誰も迎えに来ておらず、病院の車が家まで送ってくれる事になった。
そして、リー・カーターが車から降ろされた場所は家ではなくて・・・・

*****

正直、この展開に持っていくのに物語の伏線が足りないと思ったし、今も思っている。
少々唐突な展開になってしまったのが非常に残念だと思う(それまでが丁寧だったので余計残念)。

が、ついつい評価が甘くなってしまったのは笑いながら泣いているリー・カーターの姿と少し大人になったウィルの姿がとても嬉しかったからだ。

ウィルに肩を借りて立ち上がったリー・カーターは言った。

「今日が人生最高の日だ」

あぁ、その言葉を聞いたのは二度目だ。
リー・カーターと本当の友だちになった時にウィルが言ったのが最初、そして今。
そう思える時があれば、この先それが心を支えてくれるはず。
良かったね、本当に。

*****

ま、ちょっと最後の展開に唐突な感じがあったのですが佳作でした。
ちょっと甘いかな〜、でもいいや。

主役の少年達も良かったです。
特に、リー・カーター役の子はいいですね。
上手いし、良い面構えだなと思いました。

あとフランス人留学生がおもしろかったですね。
彼がまた良いアクセントになって楽しませてくれました。

プリマス同胞教会の事は知らないし、なにも言う事はないけど“教義”を盾に高圧的な家長になるような男性は如何なものかと思いますね。

ま、それはともかく良い映画でした。
楽しかったです。

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瞳の奥の秘密

妻を殺された時から、彼の時間は止まってしまった

ベンハミンは25年前に自身が関わった殺人事件を小説にしようとしていた。
それは結婚してまだ間もない銀行員モラレスの妻リリアナが自宅で暴行され挙げ句の果てに殺されてしまった事件だった。

かつての職場を訪れ、事件当時上司で現在は検事となったイレーネと再会し彼女にあの事件を小説にするのだと告げるベンハミン。
イレーネもまたこの無惨な事件に深く関わっていたいたのだ。

過去と現在が交差し次第に事件の核心に迫っていく。

*****

罪と罰そして25年にわたる情熱を描いた秀作である。

確実に前に進んでいる“現在”、虚しさが支配する“過去”そしてベンハミンの視点で描かれている小説という“もう一つの過去”で描かれる構成は見事だと思う。
特にベンハミンの小説として語られる過去は「ありのままの事実というより彼の主観だからはたしてこれで正しいのだろうか?」と見ている我々に思わせるためか良い緊張感が続くので、上手い作りだなと感心した。

映画の中で語られる台詞のひとつひとつが、登場人物の行動や仕草が、そして言葉よりも雄弁な彼等のまなざしが伏線となって物語を進め纏めていくのが素晴らしい。
物語というのはこうでなくてはいけない。

*****

結婚したばかりの若く美しい妻を殺された銀行員モラレスは一向に進展しない捜査とは別に自分で犯人を捕まえようと一年もの間毎日欠かさず駅を見張っていた。
「ブエノスアイレスに犯人がいるなら必ず電車を使うはずだから」と。
そしてモラレスはベンハミンにこう告げた
「犯人を死刑にする?注射ひとつで楽になるなんてとんでもない。私が望むことはただ一つ。犯人が残りの人生を虚無の中で過ごす事だけです。暴行殺人は終身刑なんですよね。」
そのモラレスのためにベンハミンはどんな事をしてでも犯人を見つけ出そうと決意し、アル中の部下ペドロとともに犯人を追いつめていく。

証拠は何もないけれどベンハミンには犯人の目星がついていた。
それはモラレスの家で目にした写真に写っていたリリアナを見つめる男ゴメス。
写真の中で決して手が届かない女性を恋い焦がれて見つめるゴメスの眼差しを見てベンハミンは彼が犯人だと確信する。

なぜなら彼もまた上司であるイレーネに恋をしているから。

けれども、上流階級出身で大学卒業したイレーネ(一方ベンハミンは高卒のたたきあげで身分も彼女と釣り合わない)にベンハミンは告白するどころか気の利いた事さえ言えずただ雄弁なその眼差しを彼女に向けるだけ。
イレーネはイレーネでベンハミンを想いを寄せながら婚約者がいるためか、ただベンハミンの告白を待っているだけだった。

社会的な立場が釣り合わないために想いを告げることが出来ない男と全ての壁を壊して男が想いを告げてくれるのを待っている女の切ないことと言ったら。

モラレスの無念を思い無茶な捜査をしていたベンハミンとペドロだがようやくその苦労が報われる日がやってきた。

ここまで見てきてアルゼンチンの司法の適当さ(犯人を捏ち上げるとか)、明らかに権限を越えた捜査をするベンハミンたちに「南米はアバウトだからかな〜」などと思ってしまいそうになったが、1970年代のアルゼンチンという国を考えるとこれは当然あることだなと気付いた。

知識の無い私(お恥ずかしいことです)はこの時代のアルゼンチンがどんな国だったか少しだけしかと言うか殆ど知らないが、とんでもない政治が行われていたことは知っている。
なんせ2万人が“蒸発”してしまう国だったのだから(今もどこぞの国でもやっているかもしれないが)。
軍事政権の元で黒も白となってしまう時代。(冷戦時代に南米であの国やらなんやらが何をしていたかなんて想像するのも恐ろしい・・・・)
そしてそれが後にとんでもない悲劇を引き起こすことになるとはこの時は想像しなかった。

いまだ駅で犯人の姿を探すモラレスの元に犯人を捕まえたと報告にいくベンハミンの姿を見てホッと安堵したのも束の間、モラレスが何気に見ていたニュース映像の中にゴメスの姿が映し出されたのだ。しかも要人のSPとして

その報告を聞いたベンハミンと彼の上司であるイレーネはゴメスを牢獄に戻すべくかつての同僚(犯人を捏ち上げてベンハミン達のいる裁判所から追出された男)の元へ向かった。
そこで知ったのはゴメスが刑務所の中で二重スパイとして活躍し、その功績により恩赦を受け出所し、その有能さを買われSPに取り立てられたという事実。
ゴメスは現政権において有能な人物とされ、もはやベンハミン達には手出しができなくなってしまったのである。

軍事政権の元、その政権を維持する為ならどんな犯罪者も悪人も利用できるものは利用する。いや、それは軍事政権だけがしていることでは無いだろう(国だけではなくどこぞの○○の大本山もきな臭い気がするのはきっと気のせい・・・)。
黒を白としてしまう権力の前では司法に携わる者でさえ無力なのだ。

そして悲劇は続く。

ゴメスのベンハミンとイレーネに対する無言の恫喝。

ベンハミンの家で殺されてしまったペドロ。

上流階級のイレーネに危害が及ぶ可能性は低いがベンハミンは違う。
権力を後ろ盾につけたゴメスにとっては格好の獲物だ。
イレーネはベンハミンを別の街に逃がし、逃亡先に新しい仕事を用意した。

社会的に釣り合わないと分かっていても諦めきれずに気持ちを打ち明けようと、それを受け入れようとしていた二人に降り掛かってきた、ペドロの死とゴメスの脅威。
「オレの人生の全てがここにあるのに」
と訴えるベンハミンを列車に乗るように説得するイレーネ。
想いを打ち明けることはないまま雄弁な眼差しを交わすだけの駅の別れ。

*****

ベンハミンが小説に書いたのはそこまでだった。

自分と間違われて殺されてしまったペドロ(ゴメスはペドロの事を知らない)に対する罪悪感、力及ばずゴメスを逃がしてしまったやり切れなさ、25年経ても消える事の無いイレーネに対する想い・・・・それらがこの小説には描かれているが確かめずにはおれないことがベンハミンにはあった。
それは観客である我々も同じだ。

ゴメスが法の網から逃れてしまったことをモラレスに告げた時に彼はこう言ったのだ。
「貴方には感謝しています。おかげでここまで辿り着けた。この借りをいつかお返しすることもあるでしょう」と。
見ている間この言葉ともう一つのモラレスの言葉がずっと気になってしかたなかった。

ベンハミンは今は判事まで出世したイレーネの協力のもと現在のモラレスの居所を突き止め彼に会いに行く。
そこでベンハミンが見たものとは・・・・

再会したベンハミンにモラレスは何度か「忘れたほうがいい」と告げる。
忘れる?リリアナとの記憶が薄れてしまうことをあれほど恐れた男が?
忘れる?いまだにリリアナの写真を飾っているのに?
モラレスは言ったではないか
「注射ひとつで楽になるなんてとんでもない。私が望むことは・・・」
と。

死刑制度についてどう思うかと聞かれれば「必要だろう」と答える。
が、「残りの人生を虚無の中で過ごさせる」ことが被害者の家族の願いならそれも刑罰としてあってもいいと思う。
モラレスのしたことを誰が責められるだろうか?
リリアナは暴行されることによって何度も心を殺され、暴力によって体を痛めつけられ、命さえも奪われてしまったのだ。
ゴメスがもたらした彼女の死は夫や彼女の家族を不幸にし、結果的にはアル中だが憎めないペドロの命も奪い、ベンハミンの人生も変えた。

「終身刑ですよね」
最後にモラレスが言う。
貴方がそれを望むのなら、それでいいのだ。
もしかしたら虚しいままの人生を送る事になるかもしれない。
でも、貴方がそれを望むなら、それでいい。

事件の行方を確かめたベンハミンはイレーネの元に急ぐ。
実は私が一番驚いたのは、事件の顛末ではなくここだった。
冒頭と小説に描かれた駅での別れを見た時にベンハミンは成就される事の無い恋を心に秘め(眼差しで気持ちは垂れ流しだが)、幸せそうな家庭を持つイレーネの前から去って行くと思っていたからだ。

ベンハミンの顔を見て全てを察したイレーネは言う
「簡単じゃないわよ」

25年の間ベンハミンはずっと想っていたし、イレーネはきちんと旦那さんや子供と向き合うだろう。
それに迂闊にもこの時の笑顔が一番綺麗だと思ったし。これはこれでいいのかもしれない。

「扉を閉めて」

25年かけてようやく扉を閉めることが出来たなと思った。

*****

切ないラストになると思っていたのに最後の最後で思わぬハッピーエンド(なのかな?)でびっくりしました。
ま、これは好みの問題でしょうね。
私は虚しさと痛みを抱えたラストのほうが心に沁みると思ったけど、それはあまにも酷いのかな?
ま、これはこれでいいのかも。
(イレーネの旦那と子供は納得できんと思うがね)

なかなかの秀作だと思います。
演出も良かったし、役者さんも良いし(ゴメスが「電車じゃなくバスを使ってる」と言った時のベンハミンの表情とか見てるとね)、細かいところもきちんと拾ってあって面白かったですね。本当に映画として良く出来てる。

あと、やっぱり知識が豊富なほうが映画でもなんでも楽しめるなと思いました。
南米の歴史などもっと知っていたらもっと楽しめたはずですから。
知識は必要ですよ、ホント。

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ぼくのエリ〜200歳の少女〜

「入っても良いと言って」
「どうぞ」

*****

氷と闇で閉ざされた街。
街灯の灯りを受けて小さな光を放ちながら粉雪が舞落ちる。
身の内が凍えるほど寂しく恐ろしいのに、とても美しいと思った。

*****

凍てつく林で逆さに吊られ血を抜き取られた死体が発見された。
そんな恐ろしい事件が起きた頃に12歳のいじめられっ子のオスカーが出会ったのは、不思議な少女エリ。
彼女は12歳から歳をとらないヴァンパイアだった。

オスカーがエリと初めて出会ったのは夜の公園。
彼女はまるで鳥のようにジャングルジムの上に立っていた。
降り積もった雪、暗闇と寒さに封じ込まれたようなアパートメント、その中にひっそりと存在する人気の無い公園。
いじめられっ子の少年と孤高のバンパイアの少女の孤独が伝わって来る美しい場面だと思った。

主人公ふたりが素晴らしい

オスカーは金髪碧眼のいかにも北欧の少年と言った感じで弱さと繊細さを感じさせる容姿をしている。
全身“白”といったイメージ。
オスカーの家庭は両親が離婚し母と二人暮らし。学校で三人のいじめっ子に執拗ないじめを受けても母親にはその事を隠し、母も息子にあまり関心が無い様子(生活に追われているのだろうか?)。
学校にも家にも居場所が無く、彼の孤独と悲しみが雪のように心に降り積もっていくような気がした。

そして、驚いたのがエリのアドバイスに従っていじめっ子を撃退した後のオスカー。
ひどく変わったわけではないが、いじめっ子を撃退した後の言動が“いっぱしの男”になっていたのである。
エリに恋をした事、勇気を持つ事で得た自信が彼を“気弱な男の子”から“男”に変えたのだろう。
その微妙な変化を巧みに演じていて上手いなと感心した。

ヴァンパイアのエリは黒髪で印象的な大きな瞳を持つ少女である。
彼女は“美少女”と言っても良いのだろうが、美しさと同時に醜さが混在する不思議な少女なのだ。
非常に美しく見える瞬間もあるし、酷く醜く見える瞬間もある。
それと同時に少女のようでもあるし、老婆のようでもある。

矛盾するものを身に纏った彼女の存在は恐ろしいが魅力的だ。
もしエリが非の打ち所の無い美少女だったらどうだっただろうか?例えば「プリティ・ベビー」のブルック・シールズのような。
それはそれで魅力的で美しいだろうとは思うが、ここまで恐ろしい存在にはならなかったと思う。

「他人を殺しても自分が生き残りたいと思わなかった?」
とオスカーに問うエリもそう問われるオスカーも12歳。
まだ“人”として未完成で、新春期の入り口に差し掛かった不安定な年頃であることがこの物語を危うくスリリングなものに仕立てている。

エリが12歳の少女のヴァンパイアだから、彼女は人の形をした別の生き物として何の葛藤も無く人の血を貪るのだろう。ごくごく当たり前に“食事”を摂るように。
彼女がもう少し大人だったらまた事情は違っていたかもしれない。

一方、オスカーもほとんど葛藤することなくエリを受け入れる。
彼にとってエリは孤独な自分を救い出してくれた初恋の少女以外の何者でもない。
彼がもう少し成長してたら人を喰らうヴァンパイアである少女に惹かれていることに対し葛藤が生じると思うが、今の彼にそれはない。未知の存在に対する恐れが多少あるものの、良くも悪くもありのまま受け入れることが出来る子供だからだろう。
人を殺し喰らうことに対する罪悪感や恐怖が大人に比べてこの二人はとても低い。

そして、ふたりの関係が非常にエロティックに見える。
彼等の間にハッキリとした“性的なもの”はない(エリが人間では無いというのもあるが)。
が、思春期の入り口に差し掛かっているので“性的なもの”に対する関心が存在しないわけではない。
だが、それ以上踏み込む事は無い(これが14歳くらいになるとまた事情が変わってくると思う)。
そのあやふやさがエロティックな雰囲気を醸し出している。

居場所の無い少年と居場所を持つこの出来ない少女が互いに心を寄せ合うのは自然な事。
だが、その間も血なまぐさい事件は続く。

エリがオスカーに問いかける言葉が印象的だ。
「入っても良いと言って」
彼女がこの言葉を最初に使ったのは彼女が保護者を失った夜。寝ているオスカーの部屋の窓から彼を訪ねた時だった。
エリは執拗にオスカーに「入って良い」と言わせようとしていた。
それが不思議でしかたなかったのだが、オスカーに自分がヴァンパイアだと知られた後に彼の部屋を訪ねた時になぜかそう聞くか分かった。

オスカーが言うようにそこに壁など存在しない、入ろうとすれば許可など必要なく簡単に入る事が出来る。恐れる必要などない。
けれど、エリにとっては違う。
女の子でもましてや人間でもない彼女は入れて欲しいと願っている相手のテリトリーに勝手に入る事は出来ないと考えている。
オスカーの許可がなければ彼の心の中に入ってはいけないと思っている。
だから彼の「入って良いよ、どうぞ」と言う言葉をエリは必要としているのだ。
それは、彼女にとって自分の存在全てをかけた切実な願いだ。
「私を受け入れて。全てを受け入れてとは言わない。一部でいいから受け入れて」
と。

人の血を喰らわねば生きて行けないエリがこの街にこれ以上いることは出来ない。
エリは街を去り、残されたオスカーに災難が降り掛かる。

*****

体が強張ってしまうような気がするほど、肌寒く、血腥く、恐ろしいのに何故か少しだけ温もりを感じる映画だった。
それは、寒さを感じる事も無く人を喰らって生きる少女に向けられた少年の吐く白い息が、壁越しにモールス信号で会話した指先が、大好きだよと抱きしめる腕がとても温かいからだろう。

孤独、未知の存在(別にそれがヴァンパイアではなくても“他人”であれば皆“未知の存在”であろう)を受け入れること、人に自分の存在を受け入れてもらう恐ろしさと喜びを上手く描いた作品だと思う。

寂しく残酷で美しい秀作。

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アイアンマン

アメリカが人間に姿を変えたら、トニー・戦うCEO・スタークスになるのだろう。

良くも悪くもザ☆アメリカ!!と言った感じでなかなか面白かった「アイアンマン」。

物語は次の展開を読めてしまい殆ど予想通りなのだが、それはそれで良いと思う。
娯楽作品だから楽しいかどうかが何よりも大切だし。
人生について人について考え込む為の映画でないし。

物語の3分の2は予想通りだったが、導入部は少々事情が違った。
ゲリラに拉致され、こっそりパワー・スーツを作るのだから仕方ないが

冒頭からツッコミ所満載すぎる!!

「一応、監視カメラをつけてるんだからパワー・スーツに気付こうよ、ゲリラも」とか
「材料が無いとは言えこれまた不細工な出来ですな」とか
「ちょ、ちょっと待った!!それ耐熱加工してるのか?」とか
「あっ!飛んだ!!!まさかのガス欠?!・・・・・落ちた」とか
導入部で何度ニヤニヤしてしまったことか。
楽しい。

その後も小ネタが楽しくて退屈せずに見れる映画だと思う。
特に不器用くんが素敵だ♡
ペッパーとのなんだかもどかしい関係も悪く無い。

ま、見終わって
「アメリカの仮想する敵って赤がいなくなると、黄になるんだろうな」
と思いましたが。

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トイ・ストーリー3

CGアニメって苦手だけど、これはなかなか面白いし悪く無いと思った一作目。

オモチャ達に「子供に遊んでもらう事は無いけれど飽きられ捨てられる事無く陳列棚の中で大切にされ生きるか」「いつか大人になっしまう子供と限られた時間をオモチャらしく生きるか」という二者択一を迫り、ハッピーエンドだが彼等の行く末を思うとなんとも遣る瀬ない気持ちになった二作目。

そして、見事な大団円を迎えた三作目に拍手を贈りたい。
泣いて、笑って、ハラハラして、笑って、また泣いて そして、満ち足りた気持ちで「さよなら」を言えて本当に良かった。

*****
アンディがオモチャで遊ばなくなって何年も経ち、ウッディもバズもオモチャ箱の中で退屈な時間を過ごしていた。
あと数日でアンディは大学に通うためこの家を去ってしまう。

それは仕方の無い事だけど、ウッディ達は“子供に遊んで貰う事が生き甲斐”のオモチャなのだ。
覚悟していても実際その時が来てしまうと、とてもとても悲しい。

結局アンディはウッディを大学に連れて行く事にして、バズやジェシーといった他のオモチャを屋根裏部屋にしまうことにしたのだが、母親の勘違いでバズ達はゴミに出されてしまう。

決死の思いでゴミ収集車から逃れたバズ達は「アンディに捨てられた」と勘違いし保育園行きを決め、「誤解だ!」と説得しに来たウッディの言葉に耳を貸さない。
一度はバズ達と別れアンディの元に帰ろうとしたウッディだが、その保育園がとんでもない所だと知って・・・・

*****
物語が実に良く出来ている。
とにかく一瞬たりとも退屈する事がない。
CGの出来も凄いのだが、なによりも脚本が素晴らしい。
アメリカンチッックなCGは苦手なのだが、この物語を見ているいつの間にやら苦手なCGも苦もなく見れてしまう。
映画は脚本が何より大切だと実感する。

子供が見ても楽しいだろうが、実に大人泣かせの物語である。

子供はいつか大人になる。
大切な「友達」として一緒に遊んだオモチャ達の事もいつか忘れてしまう。

殆どの人が経験してる“大切なオモチャと過ごした楽しい時間”を思い出させ、感傷的な気分になった所でオモチャ達の気持ちに上手く共感させてしまう脚本の上手さ。

どのオモチャもきちんと個性が確率されており、それぞれが活躍し見せ場があり、本当にどのオモチャも愛しいと思わせてくれる。
特に大好きなエイリアン達が健在で嬉しかった。
相変わらずクレーンを見ると「神様〜っ!!」と言う始末。いやいや、君等こそ“クレーンの神”ですよ!!
そして今回一番笑わせてくれたのがケン。
いや〜、彼の登場シーンは思わず吹き出した。
二作目に出てきたキャラクターとやや被るロッツオはかなり憎たらしいが、彼の心が歪んでしまった過去を思うとやはり切ない。

人間達もしっかり描かれていて、息子の成長を喜び同時に寂しさを覚えるアンディの母。生意気なお年頃の妹。とっても可愛らしいボニー。優しく良い青年になりつつあるアンディ。
ウッディ達がアンディのことを慕う気持ちがよく分かる。
オモチャ達にとってアンディは本当に理想の子供だったのだろう。

「優しいアンディが自分たちを捨ててしまう事は無い、きっと屋根裏部屋にしまってくれる。
そしていつかアンディに子供が出来たら、その子とまた遊べるかもしれない。」
そう思っても、屋根裏部屋の侘び住まいはどう考えても寂しく、アンディの子供が遊んでくれるなんて儚い望み。

諦めと寂しさを抱えるオモチャ達の姿に子供に遊んで貰う事こそ全てであるオモチャ達のいじらしさに胸が痛む。

ずっと一緒にいたいけれど、いつか「さよなら」しなくてはいけない。
いつまでも子供ではいられないから。
でも、この物語はこれ以上無い素敵な「さよなら」を用意してくれた。
本当に良い「さよなら」が出来たと思う。

ありがとう、みんな。
とても楽しかった、さよなら

トイ・ストーリー3は名作です。

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第9地区

怪作
と呼ぶべきか、終始身を乗り出してスクリーンに見入ったアイデアがぎっしり詰まった娯楽作品である。
そのうえ人間の傲慢さ、偽善、レイシズムなども無理なく取り入れているので恐れ入る。

*****

ある日、ヨハネスブルグの上空に巨大な宇宙船が現れ、そのままその宇宙船は空中に停止してしまう。どうやら宇宙船は故障して動けなくなってしまったようだ。
エイリアンをそのままにするわけにはいかず、ヨハネスブルグに隔離地帯“第9地区”を設けてエイリアン達を移民として住まわせる事にした。
巨大な宇宙船はそのままにして。

難民として降り立ったエイリアンと暮らすことになる人間、マイノリティーとして生きるエイリアン。

人間と宇宙人の共存が20年間続いたが・・・・

*****

見ながら唸ってしまう作りの映画である。

主人公の妻、親族、元同僚、関係者、識者などのインタビューを交えつつドキュメンタリー風に物語は進む。
そのインタビューで主人公がなにかとんでもない事件を起こした事が語られ、見ている我々はその“事件”がどのようなものか気にかかってしまう。
もうこの時点で“掴みはOK”である。

そのうえ、なんの為に地球へ来たのかは全く不明だが巨大な宇宙船(母船)が故障してエイリアンが難民になってしまう物語なんて聞いた事が無い
私が知らないだけかも知れないが・・・

エイリアン達は高度な科学力と強靭な体を持っているにも関わらず頼みの母船が故障して動かないためか、人間の言いなりになって難民キャンプと言うより“スラム”と化した第9地区で暮らしている。
猫缶が大好物(そんなに美味いのか〜!と思う程の猫缶好き。犬缶は好みではないのか?)で、人間との性交渉も可能。彼等しか扱えない凄まじい威力の武器を持つ不気味でおかしなエイリアン達。
20年の月日が流れる間に人間との交流も増えていく。

が、姿形も生活も何もかもが全く違う人間とエイリアンが共存するのだから両者の間に軋轢が生じるのは当然と言えば当然の事。
第9地区の中では、ナイジェリア人のギャングがエイリアン達を相手に狡い商売を繰り広げる始末。
不満(と言っても人間のだが)がピークに達した結果、エイリアンを新たな難民キャンプへ移住させることになり、それを実行するエイリアン対策課の責任者に任命されたのが主人公ヴィカスである。

そして私がこの物語の“キモ”だと思ったのが、ヴィカスの目を通して感じたエイリアンに対する感情だった。
ヴィカスのエイリアンに対する差別や虐待、見下した態度などに対してかなり嫌悪感を感じたが「いや、でもエイリアンと共存は厳しいし嫌だな」と言うのが正直なところで、そう思った途端、ある事に気付いた。

今、私がエイリアンに対して感じている“正直受け入れられない”という感情は、そのまま“アパルトヘイトをしていた白人”と同じあるいは近い感情ではないのだろうか

物語が徐々にエイリアンに対し好意的な展開になっていくようになると、この自分の中にある偽善を簡単に暴かれた事がじんわりと“効いてくる”のだ。

謎の液体によって徐々に体がエイリアン化していくヴィカス。
この男はごくごく普通のどこにでもいる人物で、“当然の権利”のようにエイリアンを蔑んでいた(その行為に眉をひそめながら、自分も程度の差はあれそう変わらないと分かっているので非常に後ろめたい気分になる)。その彼がそれまで自分が所属していた会社、社会に手のひらを返されたように実験体、化け物扱いされる皮肉と恐怖。

ヴィカスはクリストファーという名(それも人間が勝手につけた名前である)のエイリアンと互いの利益のために手を組む事になるのだが、時折見せるヴィカスの身勝手さにはウンザリする。何度「お前という奴は・・・」と思った事か。
が、彼を100%否定出来ない後ろめたさがなんとも辛い。

だが、自分が抱える後ろめたさや複雑な心境があるからこそ最後にカタルシスを感じる事が出来たのだと思う。

狡く身勝手なヴィカス(人間)が最後に選んだ事は、人として譲れないものだったのだろう。
人のもつ良心が彼を動かしたのだ。

根本的に何かが変わったわけではなく、残された問題は山積みだし、これからどうなるかは全く分からないし、かけがえの無いものは失われてしまったけれど、それでもヴィカスには人として大切ななにかが残ったのではないか・・・それで良かったとは言えないけれど。

ただ、物語冒頭のインタビューでさり気なく語られた事が最後の最後で出て来るとは・・・。
なんとも切なく胸が痛い。

*****

非常に面白い怪作でした。
グロテスクなところも非常に多いけれど、物語にちりばめられた歴史や道徳、人間の偽善的な姿などが上手く機能していると思います。
しかも、しっかりとした娯楽作品になっていますし。

面白かったです。
ゴーストの囁き(??)に耳を貸して良かったかも(笑)

それにしても、ナイジェリア人の扱いがどうも酷いのですが、ナイジェリア人からクレームは無かったのでしょうか?
ギャングのボスの名前もあれだったしね・・・。
いいのだろうか??

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海の沈黙

登場人物である“伯父”のナレーションによって物語は語られる。

1941年ナチス・ドイツ占領下のフランスのある村の一軒家で年配の伯父と、その姪が暮らしていた。
その家の空き部屋を借りるためにやって来た一人のドイツ軍将校。
伯父と姪は敵国の将校に対して“沈黙をすること”によって、抵抗の意志を示す。
その態度に将校が腹を立てるかと思いきや
「私は祖国を愛する人を尊敬しています」
と穏やかに語るのだった。

それから毎晩同じ時間に将校は伯父と姪の前に現れるようになる。
それに対して伯父と姪はただ“沈黙”で迎えるのだった・・・・

毎晩姿を現すこのドイツ人将校は元々作曲家で自分がいかにフランスの文化や芸術を愛しているかを語り、そしてドイツとフランスが融合すればお互いの国がもっと素晴らしい発展を遂げると言うのだ。
だが、占領されている側の伯父と姪は“そこに誰も存在すらしていない”かのように完全に彼を無視し続ける。
それでも彼は毎晩姿を現してはフランスの優れた文学、ドイツの音楽、シャルトル大聖堂を攻撃したこと、元フィアンセと破談になったことなどを語り、ひたすらドイツとフランスの融合を願っていることを熱に浮かされたように語る。
それはまるで目の前にいる二人に自分を受け入れて貰いたいと言うように。

この将校は純粋で繊細な人間だと思うが、フランス(の文化)に恋いこがれる独り善がりな人物でもある。最もやっかいだなと思うのが無垢で無邪気な人間の悪気の無さだと常々思っているがこの将校はこのタイプだなと見ながら困ってしまった。

だから将校の独白を聞いている伯父と姪が“彼を完全に存在を無視する”ことに対して、居心地の悪さを感じていることもよく分かる。
だが、決して伯父も姪も“沈黙”を破る事はしない。
彼個人に対する思いと国を踏みにじる“占領”に対する思いは別だからだ。

それにしても登場人物がほぼ三人しかいないうえに、台詞らしい台詞というのが将校の独白と伯父のナレーションだけなのがかえって息苦しい緊張感を作り出しているなと感心した。
独白と沈黙でかなり精神的に消耗させたれた感があり、この“沈黙”がいつどのように破られるのかと思っていたが・・・・

憧れのパリへの旅行を許された将校は二週間後に戻って来てから、伯父と姪の元に姿を現さなくなった。不審に思いながらも相変わらず将校がどこにも存在しないかのように振る舞う二人。

そしてある晩、将校が現れ彼がパリで経験した事を語り出した。
絶望と失望に打ちひしがれ、転属願いを出し明日前線へ立つことになった語る。

「ナチスドイツは太陽にはなりえない」

彼の願った“フランスとドイツの幸福な結婚”などは戦争によって生まれはしないのだと。

いつもと同じ態度をとる二人だったが、“沈黙”は一度だけ破られることになる。
それは、二人がしっかり将校に対して人として向かい合う事でもあるがその言葉は皮肉で辛い。

「 Adieu さようなら」

この映画の“沈黙”を破ったのは姪のたった一言だけだった。
Au revoirではなく永の別れの時に使う言葉。

伯父は将校に対して言葉を口にする事はせずだた黙って前線へ立つ彼にアナトール・フランスの言葉を贈った。
それを目にしても、将校は沈黙を守るだけで旅立ってゆく。

将校がいたことも一度も口にすることなく、最初からそんな存在など居なかったかのように日常に戻る伯父と姪。

白く朝を彩る太陽の光が哀しい。

このラストはただただ虚しい。

*****
と、無駄の無い、昔のフランス映画らしい抑制の効いた寒々とした重い映画でした。
ヨーロッパの昔の映画はこういった秀作が多いですね。
面白かったけど、終わった途端疲れが(笑)
人やお金をかけなくても脚本と監督が良ければスリリングな映画は撮れるんですよね。
本当に。

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This Is It

本物のエンターテイナーの姿がそこにはあった。

一度見てみたいコンサートと言えばマイケル・ジャクソンとマドンナのコンサートだ。
二人ともエンターテイナーの中のエンターテイナーだからだ。
とんでもない世界を見せてくれるに違いない。

この映画はイギリスで全50公演行う予定だったマイケルの最後のコンサートのリハーサルを記録したドキュメンタリーなのだが見る前は「さすがに歌もダンスも全盛期よりは劣っているだろう」と思っていた。
が、ほとんど歌もダンスも衰えていなかった(音楽やダンスについて疎い素人から見たものなので異論もあると思うが)。
これには心底驚いてしまった。

この10年くらいはゴシップで話題を振りまいていたマイケル・ジャクソンだったが全盛期の頃の彼は本当に凄かった
スリラーのビデオが電気屋の店頭で流されるとあっという間に人だかりが出来て、皆固唾をのんで彼のパフォーマンスに見入っていたものだ。(ちなみに同じ現象を私が見たのは「だんご三兄弟」のPVを電気屋で流した時のみである。ピタゴラスイッチ♪)
黒人をクールにしたのは彼の存在が大きく働いているはずだと思う。
メジャーで大衆的(ポップ)であると言う事を舐めてはいけない

スクリーンの中のマイケル・ジャクソンはかつての最高のエンターテイナーの姿そのものだった。

勿論、あくまでもこれはリハーサルの姿だと分かっている(マイケル・ジャクソン本人も「7割程度しか声を出していない」と言っている。もっとも7割であれだけのレベルかと思うと恐ろしい限りだが・・・)。
けれど一流のスタッフ、選びに選んだダンサー、とびきり上等のミュージシャン達と共に一切の妥協なしに最高のステージを作り上げるために情熱を傾ける彼は誰が見ても最高のエンターテイナーだろう。
そしてミュージシャンとしてもダンサーとしても相変わらず超一流なのだと実感した。

「来てくれる人たちは日常を忘れるために来てくれているのだから、その人たちを別の世界に連れて行きたい」

そう語るマイケル・ジャクソンが彼の人生の集大成として行うはずだった最後のコンサートは全貌が明らかになっていないリハーサルの映像を見ただけでも、とてつもないコンサートになっただろうと容易に想像出来る。
このコンサートが行われる機会が永遠に失われたことが残念でならない。
そして、不世出のエンターテイナーが失われてしまったことも。

映画としての出来がどうであるかは正直分からないが、素晴らしいエンターテイメントの一端を見れたこととその舞台裏で尽きせぬ情熱を注ぐ素晴らしいエンターテイナーの姿が見れたのは非常に面白かった。

*****

それにしても、ウトウトしかけたのが自分でもビックリでした。
とても面白かったのに・・・・かなり疲れていたんですよね・・・今も疲れがとれてないんですけど(笑)
想像していた以上に面白かったです。

暴言だと分かっていますが、マイケル・ジャクソンが“変人”だったとしても仕方ないと思いますね。
あれだけの人間の熱狂と羨望をその身に全て受けてステージに立ち、異常なくらいテンションを高く保ち続けることをしている人が我々平凡な人間と同じはずはないでしょう。
“普通”ではいられませんよ、きっと。
でなくてはスーパースターになれるはずは無い。

けれど、リハーサルに臨む彼は自分の意向に合わないことがあっても声を荒げることなく穏やかに自分の意見を述べていて、非常に謙虚な人だなと言った印象を受けました。
それに50歳であの動きとあの歌声を維持している陰には想像を絶する努力をし続けていたのだと頭が下がりました。一朝一夕ではあんな動きで来ませんよ。

クラッシック映画と現在のマイケル・ジャクソンをCGで融合させたコンサートで使用する予定だった映像が出てきて、リタ・ヘイワースの投げた鍵をマイケルが受け取ったり、ハンフリー・ボガードが銃を片手にマイケルを追いかけたりしても全く違和感がなくて「最近の技術って凄いな〜」と感心したのですが、マイケルのアップが写った途端、もの凄い違和感が・・・・
いくらなんでもその整形はやり過ぎだわと思いましたね、見た目が9割だから整形してもいいんですけどね・・・。
あと、やっぱりボギーは顔でかいわ(笑)
わたしゃゲイリー・クーパーのほうが好きさ。
でも、一番はポール・ニューマンさ♪

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3時10分、決断のとき

《注意》
ネタバレがありますので、これからご覧になる方は以下の文章を読まないで下さい。

物語はシンプルだ。
捕らえた強盗団のボスを目的地まで護送し、刑務所のあるユマ行き3時10分発の列車に乗せようとするまでの話である。

が、実に面白い

目的地に着くまでアパッチ族の襲撃や捕らえた強盗団のボス:ウェイドに恨みを持つ民警団のボールズ、そして常にウェイドを取り戻そうとする強盗団が障害となって立ち塞がる。

が、護送団にとってなによりも手強いのは自分たちが捕らえた強盗団のボスであるウェイドであろう。

“神の手”と評される早撃ちの技を持つウェイドは、冷静かつ大胆で頭脳明晰。冷酷だが人間的な奥深さを感じさせる魅力的な人物である。ちなみに時間があればいつも鉛筆でスケッチを楽しむ男。

ウェイドは聖書の言葉を引き合いにだしながら(勿論、彼は神など信じてはいない)、正義を語る者の矛盾をつき、挑発し、時に取引を持ちかけながら腕力と頭脳を駆使し隙があればいつでも逃亡しようしている。油断も隙もないあったものではない。

いつ何処で誰が死ぬのだろうかと思うと一瞬たりとて目が離せないのだ。

そして、この護衛団にはダンと言う南北戦争で片足を失った農夫がいる。
ダンは彼の一家の土地を奪おうとする悪辣な地主の嫌がらせを受け、借金を抱え、妻の信頼も息子の尊敬も失いかけた男である。
彼は200ドルの報酬のためにこの護衛団に加わる事にしたのだ。

多くの困難を伴う旅の間に、凶暴さと細やかな心を持つウェイドとひたすら誠実であろうとするダンの間に何かしら共感しあうものが生まれていく。

そこに、もう一つダンとダンの息子ウィリアムの親子関係が絡んでくる。
護衛団を追ってきた、大胆で利発な14歳のウィリアムから見たらダンは不甲斐無い父にしか見えず、悪党と分かっていても魅力的なウェイドに憧れに似た感情を抱くのは理解出来る。

けれど、息子の冷ややかな目線を受けながらも弁解もせず愚直なまでの誠実さを貫こうとするダンの姿に胸を痛めずにはいられない。

借金も地主に頭を下げる不甲斐無い姿も全て家族のため、仕方の無いことなのに。
物事をまだ深く理解しない若者の傲慢さというのはなんと残酷なことか・・・・。

そう、ダンがこの護衛団に加わったのは200ドルという金のためだけではない。
一番の目的は失われつつある父親の尊厳と信頼を命がけで取り戻すためだ。

多くの犠牲を払いようやく辿り着いた目的地。
あとは3時10分発の列車の到着を待つばかりだが、ウェイドを取り戻すため追ってきたウェイドの部下が護衛団の首に多額の賞金を賭けたことによりダン達は窮地に陥ることになる。
町の群衆が金のためにこぞって襲って来るという地獄。

命が惜しい保安官達もダン達を見捨てて立ち去った。

残ったのはダンひとり。

「見ろあいつらは皆ケダモノだ。もう充分だろう!金もやる、お前の命も保証する!オレを逃がせ!!」

この言葉にダンは首を縦には振らない。

「息子達に誇れるものが何一つない」
呻くようにダンが口にした言葉に涙した。

首を縦に振る事はできない。
良心を失わず、全身全霊をかけ使命を果たしたい。
それが自分の身の丈に合わない困難なことであっても。
たとえ死ぬ事になろうとも。
家族に誇れる自分でありたい。

誰よりも自分を不甲斐無く情けなく思っていたのはダン自身なのだ

ダンの言葉に「わかった」と答えるウェイド。

旅の間にダンの真のこころを見ていたウェイド。親に捨てられ一人で生きてきた彼は守るべき家族のために、“誇り”のために最後まで指名を果たそうするダンに心動かされたのだ。

“お約束”と言えば“お約束”だがウェイドがダンの心に応え共に駅に向かう姿に胸が熱くなる。

駅に向かうまで容赦無く降り注ぐ銃弾。

父に諭され身を隠していたウィリアムも堪らず父を救うために飛び出してきた。
ウィリアムの目に映る父は生活に疲れた不甲斐無い父ではない。
命がけで困難に立ち向かう敬愛すべき存在になっていた。

ウィリアムの働きもあり、なんとか駅に辿り着きユマ行きの列車に乗り込むばかりなった瞬間、ウェイドの部下チャールズの銃が火をふく。

ウェイドとウィリアムの目の前で血まみれになり倒れるダン。

この瞬間、たとえ自分を助けだそうとした部下であってもウェイドはチャールズ達に必ず銃を向けるだろうと思った。

いまは良くても、仲間であろうと容赦しないウェイドが見せたダンに対する“甘さ”は後々彼にとって命取りになるはずだ。それはこのケダモノ(強盗団)の中に不穏な種を残すことになる。
甘さや優しさを見せる事はボスであるウェイドの立場を揺るがす。だから、ここで仲間をきるしかないはず。生きることに長けた頭の切れるこの男ならそう考えるはずだ。
そして自分たちの邪魔をしたウィリアムをチャールズ達がそのまま許すはずは無いと分かっているからウェイドは必ずチャールズ達に銃を向けるはず。
腹心の部下をその手で殺めることで心を痛め様々な葛藤を抱えることになったとしても。
自分が生き残るために、何よりもダンが守ろうとした家族のために。命を賭けてまで守ろうとしたダンの誇りと意地のために。

命と引き換えに、息子に人として誇りを見せたダンの姿を見届けると、ウェイドは自ら列車に乗り込む。

向かうは刑務所のあるユマ。
ウェイドはここで刑務所に入れられ絞首刑を言い渡されるだろう。

けれど、このしたたかな男がみすみす死にに行くはずはない。
ダンの心意気に応え列車に乗ったが、それ以降の事はまた別の話なのだから。

ユマへ向かう列車が走り出した時、ウェイドが口笛を吹いた。

その姿を見て
「やっぱりね」
と思いながら肩をすくめてしまった。

まったく、敵わないよ。

******

見る前に「二時間以上あるのか〜」と少し心配していたのですが、あっと言う間の二時間でした。
面白かった。

大満足です

ウェイドとダンの二人を軸にした物語にもう一つダンとウィリアム親子を軸にした物語を絡めたのは良かったですね。

利害よりも命よりも“人としての誇り”を命をかけて子供に伝えようしたダンの生き様が心に沁みました。
いや、良かったです。
秀作でした。私にとってはね。

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